アンディ
Andy Warhol(19280806→19870222)
画家 版画家 芸術家 ポップアートの旗手。
8歳で皮膚から色素をなくす。
あだ名は スポット。(シミ夫くん)
だからウォーホールはミスキャスト(不適切な配役)を大切にするしかなかった。
10歳になるまでに年に3回は神経衰弱に陥っていた。
夏休みになると舞踏病にかかっていた。
だから18歳になるまで親友がいなかった。
→”だれも自分に悩みを相談してくれない”と気がつく。
→→”どうやったらこっちむいてくれるか?”
→→→おどろかせるしかない!!!
毎日ポートフォリオをもって歩きまわった。グリーティングカード、水彩画、みんなダメ。喫茶店で詩の朗読もした。
結局わかったことは、みんなパーティが好きだということだ。
だから黙ってパーティの準備をして、人に来てもらうようにした。
何もできないから黙っていると、少しずつウォーホルが変人であることに人気が出た。
「もう孤独でいいやと思ったとたん、取り巻きができたのだ」。
パーティの会場をいちいち変えるのは大変だから、ちょっとしたスタジオをもって、そこによく来る奴は寝泊まりもさせた。
ウォーホルは確信、
「ほしがらなくなったとたんに手に入る。これは絶対に正しいことだろう」。
ウォーホルにとっては
“買う”は”考える”よりずっとアメリカ的。
アメリカは人でも金でも会社でも国でも買ってしまう国だから、
ウォーホルはアメリカでなければ生きられない。
そのかわり、ウォーホルには
”人というものはすぐに狂気に走りたがる”
ことが手にとるように観察できた。
ともかくウォーホルは
有名なものを複製して複写して
仕事場を会場にしてポップアート宣言するだけなのだから、
あとは集まってきた連中がおかしくなるのを待つだけなのである。
23歳で髪を真っ白にしておいたのもうまくはたらく。
ウォーホルがメディア・パーティの主人公だと勘違いされた60年代は、
目立った男や目立った女と親しくなるためにはファッションも言葉も趣味も独特でなくてはならず、
それで傷つくのを恐れてはいけなかったのだ。
”必ず傷つくために親しくなったもの”
そして
”親しくなったら、必ず傷ついた”
”親しくなる”というのはウォーホルにとっては、そういうことだった。
こうしてウォーホルは10年に1度しか休暇がとれなくても
”どこへも行きたくない”
という奇人変人になりおおせた。
たぶんウォーホルは招かれないかぎりは、いつも自分の部屋にいた。
テレビを2台つけて、リッツ・クラッカーをあけて、ラッセル・ストヴァーのチョコレートを食べて、新聞と雑誌を走り読む。
ウォーホルは「ひなひな」である。
ママ坊である。
再生元素が足りない化学物質である。
しかしそのぶん、ウォーホルには常套句があった。
それがウォーホルの哲学だった。
「だからどうなの?」
と言ってみることだ。
言わないときは心で呟いてみることだった。
・母親に愛されなくてねえ。
・旦那がちっともセックスしないのよ。
・ 仕事ばかりが忙しくてさ。
・ いまの会社で大事にされているんだけど、なんかやることがあるような気がしてね。
・これってアートにならないらしい。
”だからどうなの?”
いずれにせよ、人はいつも同じことを繰り返してばかりいるのだ。
ウォーホルからすると、
それで失敗するのは当たり前で、
成功することなど忘れれば、すぐに成功するのにと思えるのである。
そのうち、ウォーホルはまた気がついた。
”新しいものとはわからないものなんだ”
ということである。
”それが何かさえわからないもの、それだけが新しいものなのだ”
ということは、
「これ、わからないね」
と言われれば自信をもてばいいはずだ。
ただし、100パーセントわからないものにしなくてはいけない。
全部わからないのが、いい。「ここがわからない」と言われるようではダメなのだ。
ウォーホルは、こう、確信した。
”とくにアートは作れば新しくなくなっていく」”
以上、ウォーホルがとびきり猜疑心が強くて、ひどく嫉妬心が強いことをあらわしている。
彼のことよく知らなかった。
好きでもなかった。
でも
なんだか興味が最近ある。
彼の言葉をあるひとが抜粋してたこと
”アーティストはHEROじゃない。ZEROなんだ。”
なんとなーく、そーかも!って。希望をもちつ思うこと。
ひとを知るっておもしろい。